森美の「芸術は可能か」youtubeインタビューを見た

「芸術が可能だから、いまこうやって芸術家をしています」
という答えになぜだかがっかりした。
そのように使われる芸術という言葉が、ある種の特権に聞こえたからだ。
私は素人だけれど、私と彼らのその考え感じ方とは違う、と思った。


けれども、彼らの様に答える人がいておかしくないと思う。
何故なら、今までは、「芸術とは、ある種、芸術家と認められた一部の人がするもの」
だと考えられて来た面もあると思うから。
でも、それは古い考えで、いま、芸術と社会との関係は変化しつつあるのではないか。



芸術とはその人の中にある世界を他の人と共有することだと私は思う。
だからモノ自体は芸術ではない。
芸術に形はない。


共有するために、表現する。
何故共有するために表現するかというと、
私たちは、それぞれの世界を表現無しでは知ることが出来ないから。
表現が媒体。
そういった意味では、会話も、生活も、振る舞いさえ、芸術になる。
世界を体現し、それを他の人が共有する時に芸術は発生する。


ただ、会話が全て芸術かといわれるとそうではない。
そして、芸術にもより高度なものがある気がするのだけれど。


もし、より良い芸術があるとするなら、
一体感の高いもの、感動させるもの、
世界を広める助けになるもの、理想的な世界を築くヒントになるもの、
が良い芸術な気がする。


作品として「絵」などの形あるものが、芸術とわかりやすく認められていたが、
今では、パフォーマンスなどの形のないものまで芸術と呼ばれると思う。
それは、表現が純粋な形になって来たからだと思う。
純粋な形のもでも、世界が表現されていれば共有できるので芸術と感じられるまで
人のレベルが高まったのではないかと思う。
もしくは、社会の定める「芸術」の概念から自由になりつつあるからではないか。



私のかなの世界ー表現ー共有ー芸術化


私たちは本来、自然や社会という環境の中にいて、
現実の世界を共有している。
つまり既存の世界に住み共有している。
この「共有される世界」を司るものを神と呼ぶ。
表現者は自分の表現を誰かに共有してもらうことで、「共有される世界」の創造者=神の様な存在になる。
その意味で、人はみんな神たりえる。


これからは、みんな自分の世界を表現していくので、全員が芸術家の世界になると思うし、みんなが神になると思う。
今までは、共有することがメインであったが、表現も携えて生きてくという自負が生まれると、より自分の世界観を磨くことに意識的になる。自分の世界を構築するためには自分自身を受け入れなくてはつらいので、自分に否定的な人は、まず最初に自分を肯定する所から始まるだろうと思う。