カモンちゃんから、先輩の伝説の作品の話を聞いた。それは、真夏の函館でのことだった。私たちは函館を訪れていて、日中それぞれが自由に行動をし、日が傾いて来て合流したときに聞いたのです。彼女たちは日中、X先輩の伝説の作品(小説のようなもの)を見る貴重な機会に恵まれたらしい。私は伝説となるなるものを作るなんてすごい!!と思った。しかし、一部の人には先輩の感性がぶっ飛びすぎてて意味が分からないというか、ほとんど困った内容だ、という感想を持っていたようだ。


私はその中身が知りたくてカモンちゃんに聞くと、簡単には地上での人間のルールを改善するための意見的内容を物語風にしたもので、たしかに、ピンとこない人からするととてもじゃないけれどめちゃくちゃな内容に見えただろうと思ったし、それは仕方のないことだと思った。わかる人にだけはとてもよくわかる、そんな内容だった。かもんちゃんの説明を聞いていると、不思議なことに作品の内容が歌のようにあたまの中に流れて彼女の話を聞いてるのではなく直接その作品に触れたようだった。だから、最初は私もにっちゅう見に行きたかった、と思ったのだれども、いまわかったのでこれで良かったのだと思った。


なるほど、と納得した後に、私も似たようなことを考えたことがある!と、カモンちゃんにいった。カモンちゃんは小さくて、色が白くて髪は黒くてつやつや、英語が堪能で優しくてかわいい私の大好きな女の子だった。「なになに?」と聞いてくれたので、私は話しだした。


信号機はとても不便。見た目も良くないし。だからそれを魚に頼むの。魚が信号機の代わりに、交通を整理するんだ。魚は好奇心旺盛だから引き受けてくれる。魚の信号はもちろん赤青黄色じゃない、けれども、必ず良くわかるんだ。さらには、すごいことに、方向やタイミングを指し示すだけではなく、合図を出した相手が知りたかったことや、必要なことのヒントをいっしょにくれるんだ。そいったことを話すと、カモンちゃんは、いつ頃思いついたのか、聞いた。私は、今年の一月頃だよと答えた。


そして、そのやりとりをした後、私は失敗したなと思った。もっとカモンちゃんのお話を聞けば良かったって。
私は人と接する時に何を希望するだろうか?と振返った時に、私の思いや意見をつらつらしゃべることよりも、相手にとって有意義であることが理想的であるような気がした。たとえば、その子が困っていることをよくきいて、あたまの中で本人が感情を整理すること後手伝ったり、あるときはこう考えてはどうだろうか?と提案したり、一生懸命だけれどもうまくいかない人には手助けになったり、・・・という風にね。でもやっぱり、私は自分の話したいこともやはりはなしていいのだ、ということに気がつく。意図して、相手のお役に立ちそうなことを話すこともよいけれども、そんなことしなくても、自分の気持ちが素直で飾らなければ、その時私の中に自然にうかんでくることを話すことは、相手にとってなにかのヒントになるのだ。必ず。なぜなら、その人といっしょにいて思いついたことなのだから。相手のことに集中してうかんだ思いは、必ず相手の何かしらの役に立つ面があるはずだろう。相手を注意深く観察し、感じていればいるほど。


そのことを、私はきっと、魚たちに学んだ。ありがとう。



先輩がすごいのは情熱だったのだ、とわかった。純粋に感じあってヒントを発しあいながら生きることの楽しさを共有したい、伝えてもっとよくしたい。そんな想いが価値になるのだと思った。その熱い願いは、本来ならば誰でも持ち得ることで、決して特別なことではないはずだ。



そして、夢から覚めた。起きると、本当に息が苦しくて、呼吸をずっと止めていたのかと思うくらいだった。実際、息を止めていたのかもしれないし、ただ、この気温の高さのせいかもしれない。私はとにかくとても苦しかったのだけれど、・・・それは、もしかしたら海の世界に本当にいってたのかもしれないと、感じるくらいに息が苦しかっの、酸素が足りないみたいに。今はもう平気。私はめんどくさがりやだけれども、域が苦しかったおかげで、一気に明確だった夢の内容をほどけるようにどんどん忘れていく手前で文章にできた気がする。