佐藤可士和/尾形光琳
光琳と佐藤可士和の回!
楽しみにしてたのに寝坊しちゃった!!
途中からメモ。
雑味=背景 をとることで花が生きる
インパクトを考えてるのでは?
草に輪郭がない=線が少ない=シルエット化
佐藤は、大胆さと丁寧さが両立したものが優れたものと考える
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尾形光琳が絵師となろうとするとき、もう40歳になってた。
父が死に趣味だった絵を仕事に。
絵師にはパトロンが必要。中村くらのすけをパトロンに。
宮廷お墨付きを7年でゲット。
寿老人のうちわ
八橋のうちわ
当時、うちわなどに日用品に絵を描くことはなかった。
チャレンジ精神あり。
扇面播磨手箱
円だけで現した梅は光琳梅と呼ばれる
着物に絵
動く絵画
錆絵竹図角皿
弟との合作
(当時、有名な絵師は皿などの絵は書かない)
後輪の繰り返し取り組んだのが”水の流れ”
「流水図乱箱」
黒い背景に金で描かれた水の流れ
佐藤コメント→水をモチーフにしてる所がチャレンジング。形のない水を形にして行こうということ。絵画とメディアの関係。自分が関わることによってメディアの価値を変えようとしてたのでは?(絵皿の絵は一流の人間は昔はしなかったことから。)ぼくはデザインは社会をキャンバスにしたものだと思ってる。光琳も既存以外に手を出して、新しいものが生まれることにトライしてたのでは?
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光琳は47歳で江戸に向かう。新たな顧客を求めて。それはこれまで付き合いのなかった武士と付き合ってくということ。雪舟の模写などをする。
江戸で書いた手紙の一節
「あと十年ほどの命、このまま終わるのは無念です。貧しくとも心を楽にしたいのですが。」
『波濤図屏風』をつくりあげる。
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52歳で京都に戻る
新しく自分の家を造り、死ぬまでの5年間ここで描く。
『竹梅図屏風』
光琳が宗達を模写。
光琳の「風神雷神図屏風」
風塵の形はぴったりと書き写されている。
異なる点は、風塵の太鼓まで内に描き安定
黒い色の雲 そして、目の表情
『紅白梅図屏風』
左の白梅 曲がりくねった幹
右の紅梅 上へ上へと伸びている
この絵も宗達への挑戦か?木は風塵と同じ場所に配置され、
真ん中に河を置く。
紅白図屏風の河の色について。東京理科大の研究の結果、全体は銀、黒の部分には硫黄で硫化銀。白くのこっている部分は銀である。
佐藤コメント→紅白梅図という名前だけれど、河を書きたかったのでは?金と銀だけで抽象的にしたかったのでは。ただ当時の感性だと先を行き過ぎてて、成り立たせるために梅をかいたのでは?真ん中を空けるのが、動きを殺さない美術の教科書的基本とされるが、光琳はそれを壊したかったのではないか?(ex.「八つ橋部屏風」)
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まとめ
佐藤コメント→人間は複雑な情報を捕えられないので、デザインが有る。抽出して現す。光琳はそうゆうことだと思う。印象がバーンとはいってきて古びない。画力ではなく、光琳が進んだものの考え方で作りだしていた。それによって、今みても古びて見えない。