わたしたちのピクルス

すごくすごく眠たくて帰って、浸水するように眠った。起きたら酸っぱいものが食べたくて、ピクルスを食べようと冷蔵庫、あけて瓶を取り出す。けれど、瓶がなかなかあかない。きっと酢が冷える前にふたを閉めたせいだ。ああ目の前にあるのに!


目の前の瓶の中にあるものが、手に入れられない感覚がもどかしい。生活の出来事はあらゆる場面の現象に相似する。自分の頭の中にあるものが、手に入れられない感覚。でも、どうしてもほしいから空けようとして、あける方法考えるときの集中と試行錯誤。目的が定まってに集中している時、無心になる。目的の意識は集中を安定させる作用があるみたいだ。


何がほしいか知覚する(ピクルス)、どこにあるか知っている(瓶の中)、取り組む(ふた開ける)。この流れだ。ほしいものを現実に取り出す。このとき動機になっているのが、ほしいもののイメージ。これは自分の中で発生する。


ピクルスの瓶は必ず開けられると信じるのに、どうして人は自分の想像(それは時に夢や理想などと呼ばれたりするけれど、わたしは遊びと呼びたい)が実現出来ないとおもってしまうの?


人は経験したことのないことを信じがたいようだ。経験あるものとないものとを分けて考えている。たしかに、経験の有無と言う観点で区別することは出来る。しかしそれだけのことで、既に頭の中にあるというという視点からすると一緒のことだ。経験されていることもある時点までは未経験だったはずだ。


まだ経験したことないものを強く思い描き、実現出来る信じて行動出来るひと、私にとってのすごいひとだ。そのひとには想像力、情熱、行動力がある。それらのパワーをもちえたことと同じくらいかそれ以上に、そんな強い人が純粋さや夢みる力を持って実現にいたったことに感動する。


ところで、私たちは協力出来るし、完璧ではないと知っている。あかない瓶は力のある人にあけてもらうことができるし、手先の器用な人が絡まった紐をほどける。これくらいなら誰がしても結果は同じだ。(専門性が高まるほど出来る人数が減る。)



それではわたしがしなければわたしにとって達成されないことはなんだろう?


やる人によって結果が違うもの、過程自体が目的なもの、やりたい!というエネルギーが沸くものこそ、だろう。そう思う。そのとき、ピクルスが感覚やイメージで、ふたを開けるは表現・創造だ。



今日、レイハラカミさんの台所USTの再放送を見た。あの音楽、ハラカミさんが長い時間と労力をかけて生み出した。そのピクルスがみんなに振る舞われていた。そうか、これが純粋な愛の形の1つなんだな、と思ったよ。